福田教授の総回診【第6回】「頑張る」とは

生きている中で多くの人が、生徒や選手に「頑張れよ」「頑張らないと」「頑張ろうな」と言っているのを当たり前に聞く。
また多くの生徒や選手の言葉や文章にも慣用句のように「頑張ろうと思います」「頑張ります」と登場する。指導者という生業上、特に多く耳にする。私は、何時の日からはっきり覚えていないが、人に対して「頑張れ」と言わないようになった。

世の中に「鬱(うつ)病」を患う人が増え、そのような人に対して「頑張れ」という言葉が逆効果であると学んだ辺りからだと思う。またその時期に「頑張るってどんなことなのか」掘り下げて見たことも影響している。
私が教員4年目(今から16年前)に浦和レッズ役員の某氏の講演を受けたとき、「今の若者は頑張ることができなくなって来ています」「頑張れる・努力できることはもはや才能である」とお話されていたことを思い出す。
私は当時の三郷工業技術高校サッカー部の選手からはそのことを実感できなかったので、そのお話だけ妙に衝撃的だった。選手達への精神的動機付け(モチベーション)の目的で、「頑張る」ということについて話しをするとき、よくこう言っている。「まだ、みんなの世代はしばらくは評価され続ける世代である。『自分なりに頑張っています』では評価されない。
評価者が『あいつ頑張っているな』と評価できるように頑張ることが(正しいかどうかの倫理的な問題は別として)必要なんだ。」「通知票の体育の成績などはいい例で、身体能力のある生徒も頑張りを見せられないと【5】はもらえないのがいい例だよ。」「人数の多い強豪高校サッカー部で高校1年生がメンバー入りするためには、能力を持っているだけでは駄目で人間的な部分を含めて評価を受けないといけない。」と。

さて本題に入る。<頑張る>とは、<無理する>という要素の高い行為である。

運動量で無理するためには睡眠時間の確保・栄養摂取は、当然のオフザピッチの行動である。筋肉の動きに無理な要求するならしっかりとしたストレッチは必要である。体調管理も当然のことである。ナイター練習の後、家に帰って2時間以上かかる宿題が残っていたりしたら無理できないのではないか。無理が利くためのいい準備が出来ていないと無理できない。つまり頑張れないのである。自分の心に限界という境界線を引かず、自分の100%以上の事をやろうとする、無理の利く人間になることこそが私の評価する「頑張れる選手」である。
企業人になれば、取引先や上司に「○○日までに○○をやってくれ」とか「急で申し訳ないが、今から○○に行ってくれないか」と言われることがある。断る人間やふて腐れてやる人間が、信頼されることないはないであろう。そのときに「わかりました、頑張ります。」と言える人間も社会では求められている。
サッカーでも監督に信頼される選手とは無理が利く選手であり、その無理が利くためのいい準備(コンディションつくり)をしている選手である。無理な要求をされるとふて腐れてしまったり、やる前に限界を自らつくってやろうともしない選手はこの時期に変えることが出来ないと、高校サッカーで辛い3年間が待っている。レッズの講演会での言葉がリアルになりつつある。誰もが頑張れない時代になってきている今、「頑張れ」は力を持たない社交辞令的な文句になってしまうであろう。