福田教授の総回診【第22回】「胃がんリンパ節多発遠隔転移STAGE4・平均余命1年6ヶ月」①

「胃がんリンパ節多発遠隔転移STAGE4・平均余命1年6ヶ月」①  

私の病名である。2021年1月15日、新年早々人生の終点を告知された。

 <総回診>この、コラム、私は医療ものの本やドラマが大好きで、特に「白い巨塔」は山崎豊子さんの本も精読しました。TVドラマは主演が田宮二郎の時も、唐沢寿明に主演が変わった時も録画して観ました。

 そのドラマに登場する言葉をコラムのタイトルにし、総回診を書く私が、STAGE4まで癌に気づくこともなく、「財前五郎(原作での主人公)」ばりに、命を終えて行くのはとても運命的なものを感じ、ただただ「無念」です。

 2020年、かつて患った心臓の具合も悪くなかった。全く休みもせず、土日も平日も仕事とサッカー指導に明け暮れていた。超過勤務時間が長すぎて、毎月管理職から指導をもらいつつ、コロナ禍に負けずサッカーにも仕事にも全力投球してきた1年であった。

「青天の霹靂」? 年末から具合が悪くなり、年明けから病院で検査に明け暮れた。胃潰瘍か、12指腸潰瘍?腎臓肝臓の病気?そんな風に軽く考えていた私に告げられた検査結果は想像を超えるもので、あっという間に1月から、常に終わりを意識した生き様が始まった。

 正直、私の現状は深刻だ。外科的手術も放射線治療も免疫療法も光学療法も適応外。しれっと「胃がんリンパ節多発遠隔転移STAGE4・平均余命1年6カ月」を告知された。本を読みまくり、インターネット検索に時間を割き、転院した結果国立がん研究センターの主治医の推奨する<治験による抗がん剤治療>がベストだと判断し臨んでいる。医療現場のセオリーなのだろうが、主治医も緩和ケアドクターも、看護師も治験コーディネーターも「絶対治ります」とか「頑張ってください」などの言葉は一切ない。根治の可能性は抗がん剤治療のエビデンスから見ても6%程度だからである。

 私は、(毎年の人間ドック胃検診の「異常なし」の結果について若干疑念は持っているものの)誰を恨むことも、何を悔いることもない。自らの免疫不足で癌を作ってしまったのだから、こいつと数年つきあっていくしかないこと、結果余命幾ばくかの人生であることを覚悟し、これからの残された日々を燃焼したという想いにシフトしている。「死」に対する恐怖はゼロではないが、多かれ少なかれ訪れるものであり、私の場合、少しだけそれが早く来ただけのこと、むしろ先が見えている分、明確な終活が出来ると思っている。

 病院での私は、極めて若い。病院にかかっている方々は、大半が私より高齢の癌患者であり、体力的にも確実にわたしより劣る。54歳の私は、この世界の若き新人、いわゆるペーペーだ。3密を避けた待合室では常に席を譲る。採血やCT検査で血管に針をいれるのはあっという間、主治医の診察も無駄口一つたたかない。

秒単位で(「ハイ」「わかりました」「お願いします」「ありがとうございました」)診察室を出る。質問があるときは、受付にPCで打ち込んで作成した質問用紙を渡しておく。首を長くして待っている次の患者のため、必死に働く医療従事者に最大限の敬意を持って私なりに気を遣っている。こんな時でも「自分のことより人をこと優先する」自分は本当に公僕らしいなと感じている。

 そんな私は抗がん剤の副作用を侮っていた。脱毛を恐れ、髪を短くした。吐き気や食欲不振に備え、食材を自分で購入し、家族に迷惑をかけずに立ち向かうつもりでいた。体力と気力で打ち勝てるに違いないと。

 甘かった。食事は全く取れなかった。めまいや吐き気、しびれ、冷感、悪心・・・心の置き所がなかった。

眠りも浅く、痛みを麻薬でコントロールするのが精一杯の日々が続き、体重は激減、伸びきったひげ、目の輝きが失われ、手足の皮がむけ、変色した。正直、治験抗がん剤を辞める一歩手前であった。

 3月初旬までの自分は、明るく、前向きに振る舞ってはいたが、夜中には今までの53年分以上に、目から塩水を放出した。私の終活は今まで関わってきた多くの人に別れを告げるべく、再会を果たすことに使われた。

            続く