辞書にはこう書いてある。『⼀⽣懸命の語源・由来は、「⼀所懸命」が本来の形である。⼀所懸命は、中世の武⼠が先祖伝来の所領を命懸けで守ったことに由来し、切⽻詰まった状態にも使われた。近世以降、「⼀所懸命」は「命懸けで何かをする」と⾔った意味だけが残ったため、「⼀所」が「⼀⽣」と間違われて「⼀⽣懸命」となり、発⾳も「いっしょけんめい」から「いっしょうけんめい」に変わった。』と。
両⽅の⾔葉の語源・由来は考えず、単純に⼀⽣懸命を「命がけで物事をすること。全⼒をあげて何かをするさま。」そして、⼀所懸命を「⼈が、⽣活のすべてをその所領にかけること。」として、サッカー選⼿(の育成)について考えてみた。⼀⽣懸命は「試合全てにおいて全⼒を使う、ひいては攻守ともに献⾝的にプレーする。」⼀所懸命は「⼀⽣懸命より少し、ポジションによってプレーの頑張り具合に優先順位があり、⾃分のポジションに求められる主たる役割に120%を求め、それ以外を、80%くらい(少し⼿抜きする)でやる。」
これを読んでくれている皆さんは「⼀⽣懸命な選⼿」と「⼀所懸命な選⼿」のどちらを⽀持しますか。また指導者の⽴場として望ましい育成はどちらだと思いますか︖
個⼈的⾒解でタイプを分類します。もちろん選⼿の分類基準は、所属チームの求めている部分が⾒えているだけで本来の選⼿の質とは異なるかもしれませんが・・・。
「⼀⽣懸命型」・・・岡崎、オスカー(ブラジル代表)、ロッペン(バイエルン)、イニエスタ(バルサ)・エトー・サバレタ(マンC)、ルーニー(マンU)、中⼭(ゴン)「⼀所懸命型」・・・本⽥・メッシ・ロナウド(元ブラジル代表)・カッサーノ・Cロナ・三都主(古い︖)
⼀般論から⾔うと、運動量豊富な選⼿(遅筋系)には⼀⽣懸命が、運動量が少ない選⼿(速筋系)には⼀所懸命育成と位置付けられてしまいますかね。またFWは⼀所懸命タイプが多い。勿論その分類は当たり前のことかとおもいます。では別の観点から考えてみたいと思います。
⽇本の選⼿育成の指導者のスタンダードは、「⼀所懸命型」の選⼿がスター気取りでいることを承伏できず、⼀⾒地味に⾒えるも「⼀⽣懸命型」の選⼿に理想の育成像を重ね合わせてしまう。今、教えている選⼿たちに⼀所懸命型の選⼿タイプを認めてはいけない・・・と。この国の場合、指導者が学校教育の⼈間であることが⾜かせに︖⼩次郎を育てた吉良監督タイプは少な(笑)。
得意なことばかりを頑張る選⼿を、われわれ育成指導者の多く(教育者)は「わがまま」「⾃⼰中⼼的⼈間」として、捉えてしまう傾向があるかもしれません。しかし得点を取ることだけに懸命になり、結果点を取ってチームの勝利に貢献する選⼿なら「あり」と⾔うのがプロスポーツの世界なのかもしれません。ある意味その分野のスペシャリストであることがトッププレーヤーとしての成功条件と⾔えそうです。ワールドカップでもメッシもネイマールもCロナでさえ守備はほとんどしていないも同然です。(コース限定くらいはしているかぁ・・ファンに知れたら怒られそう)
持論を展開します。得点を取ること(得意なプレー)にだけに「切れ」と「判断⼒」を使うFWや、相⼿のFWを完全に封じ込めるだけのセンターバックなどのスペシャリスト系<⼀所懸命型スーパースター>は周囲の選⼿たちがその選⼿の「⼀⽣懸命」でない部分を補える戦⼒があるときに成り⽴つし、そういう国やチームであれば指導者が選⼿育成の中にスペシャリスト(⼀所懸命型選⼿)だけ育てればよいという「ゆとり」が⽣まれるのではないかと。
残念ながら⽇本のようなフィジカル的にもテクニック的にも極めて優れた選⼿が⽣まれてきていない国では、チームとしてコレクティブに勝利を求めるがため、ユーティリティーな選⼿育成を志向し、時には「個」を押し殺してでもフォアザチームに徹する<⼀⽣懸命型選⼿>を育てようとするのでしょう。また「勤勉」を売りにする労働⼤好き国「⽇本」での公的教育は、当然全ての分野に勤勉さを求める。
学校内でも掃除、授業、宿題、委員会、HR活動など全てに優秀でないと、部活動で華やかな活動をしても評価を受けない場合が多い。サッカーがスペシャリストである選⼿は、他のことも模範的でないといけないという指導を指導者たちは厳しく要求する。そんな⽂化や伝統、社会的しきたりが、サッカーの中に⼀所懸命的スーパースターを排出しづらい環境をうんでしまっているのでしょう。ずるさや⼿抜きは「部分悪」に分類されてしまう。
インターハイの全国⼤会のように、酷暑の中、連戦を乗り切れる精神⼒や体⼒を要求してしまう⼤会⽅式も、それに拍⾞をかけている可能性もある。
やはりメンタリティの似ているドイツを⽬指すべきなのか︖育成に関してはフランスのINF学院を模範にし、そしてパスサッカーのスペインサッカーに移⾏してきた。模倣することの得意な⽇本サッカー界が、今後どういう道を歩むのか。今回のW杯1次敗退で⽅向転換があるのか︖
いい加減オリジナリティなしでは上る階段は無くなってしまうかもしれない。産業分野では、⻄洋化を⽬指し、その模倣から最先端技術を産み出し、今や世界最⾼⽔準の経済⼤国となった⽇本。しかし、サッカー選⼿を⾃動⾞製品で例えるなら、燃費、バランスがよく、⻑持ちする⼤衆的⾃動⾞開発には成功しているが、世界の⾃動⾞好きをうならせるスーパーカーは作らない、といったところか。というかそれを⽣みだす⼟壌にはない。
経済的リスクが優先されるからであり、趣味の世界とは違うからだ。ミラノコレクションをみていても同じような想いになる。趣味の世界やファッションショー向けの⼀所懸命さが⽇本には⽋けている。
⽇本サッカー界の進歩は誰も否定しないし、⾜跡も誇れるものであることは、誰も否定しないだろう。後は育成にかかっている。そしてオリジナリティを根付かせることだろう。競技⼒ではベースボールより野球の⽅が勝率が⾼いことを証明している⽇本の野球界のように。進塁打・送りバント・牽制球・セオリー野球・・・。
時に極端な育成⽅法が瞬間、⼀世を⾵靡する。ダイエット法のように。ブラジル体操・ラダートレーニング・体幹・2軸動作・クーバー、戦術で⾔えばWMフォーメーション・アヤックス343システム・ゾーンプレス・フラット3・バルサの5秒ルール・・・そこにかぶれすぎる指導者もまた⼀所懸命なのですね。まあそれぞれ⼀種の流⾏のようなもので、⽇本の育成に根付いているものはありませんが・・・。
それでも⼀種の遊び⼼から来る⼀所懸命がスペシャリスト=スーパープレーヤーを産むのかもしれない。半分教育者・半分研究者・発明家。理想も追いかけ、現実も⾒て。まだまだ勉強・模索です。でも⽂化や伝統にとらわれない「サッカー界の⻲〇⼀家」のような指導者の出現を、指を咥えて期待してみたい気もする。「頭打ち」を打破するために。
でもやっぱり私も⽇本⼈教育者。ただただ個⼈的にはこの道で⼀⽣懸命型選⼿育成が正しいと信じていきたいし、この育成プログラムで⽇本にはワールドカップ優勝を果たして欲しい。もし今の指導⽅法で⽇本サッカーが世界⼀になれたら、⽇本のメンタリティや育成⽅法を世界が⾒習う。努⼒をベースにした⼀⽣懸命型サッカーを世界各国が育成の模範となったら、極論⾔えば、世界平和が実現するかもしれない。
サッカーを通じてサッカー選⼿みんながオフザピッチ全てにおいて⼀⽣懸命になれば、世界も変えられる。サッカーが世界で最も愛されているスポーツなのだから、サッカーのためなら努⼒できる若者は何億⼈といるのだから。
でも・・「⼀⽣懸命」やってる⼈には、「ずるい」ことを考える余裕(ゆとり)は得られないこともある。カリカリと仕事をしている⼈にジョークをかますとムッとされますしね。まさに理想と現実はかけ離れているのでしょうね。「ずるい」というのがありなのがサッカーですからね。「ずる」に対抗できるのは「正義」では無理ですね。究極勝ち負けは、相⼿を貶める挑発⾏為や弱点をいやらしくつくずるさにあるのですから・・・(正義の番⼈=【審判団】もだまされる世界だし)。
⼀⽣懸命が⾺⿅をみることもあるのがスポーツ競技です。わたしは「ずる」に対抗できるのは<経験>と<基礎の⼤きさ>だと。よってこの⽇本にいるだけではいけません。世界には⾒たこともない「ずる」があるのですから。
結論︕「組み合わせ」ですよ、チーム作りとは。「⼀⽣懸命」型と「⼀所懸命」型選⼿の組み合わせ︕「正義」と「ずる」の組み合わせ︕常に仲間を信じ続ける選⼿と⼀⽣懸命に⼀相⼿を騙す選⼿︕多⾓的・多様な育成が出来るバランス感覚のいい指導者にならなくちゃです。考えてみたら⾃分もオフサイドトラップには⼀所懸命でした。相⼿のFWの集中をそらす術には⼀所懸命でした。いろいろなタイプ・個性の選⼿を相互理解の元、いいところを引き出すそれがいいコンダクターですね。
諸行無常の響きあり・・・盛者必衰の理をあらわす・・・おごれる人も久しからず。平家物語でも読み直してみよう。