福田教授の総回診【第2回】競争の中での協同

今頃になってジーコの本音が世間の物議を醸している。代表の控え組みの2名を名指しこそ直接していないが、”腐ったミカン”と称して、代表の雰囲気やモチベーションに悪影響を与えたと暴露したのだ。
私は当然その2名はXとYだと推測した。所属チームのスケジュールを犠牲にして、代表に帯同して自分が使われないことを不満に感じ、余計なコメントを連発していたアホな若造が数人いましたから。
代表でもレギュラー組みと控え組みの確執があるくらいだから、<競争と協同は同居しない>と思う人は多いのではないか。

”協同”とは学び合うという意味である。”学び合い”を疎外する人間関係とは、”仲が良くない”ではなく”バカにする”である。仲が良くなくても、必要とあれば協力する。しかし、必要があっても、バカにする相手とは協力し合わない。
なぜなら、その能力を持っていないと判断しているからである。何故、バカにするかといえば、教室やグラウンドで単純な次元(多くは成績や競技のうまい下手)で序列化がなされているからである。
チーム内にこうした序列が表れた場合、格下の相手には勝てても、格上の相手には勝てない。ましてやピッチ上の11人でこの関係が表れるとチームは良いゲームをすることはまず不可能である。

最近の小学校での運動会では幸運を伴って勝ち負けが決まる競技を取り入れている。単純に足の速い児童と遅い児童で今後の学校生活の中で序列を作らないためだ。日頃の生活から”負け”を認めて卑屈にさせてはいけないし、勝者が偉そうに敗者を”バカにする”可能性を憂慮してのことだ。
しかしながら、紅組・白組に分けて勝ち負けを競い合わせることはどの学校でもやっている。

足の遅い児童にも勝つ(いい順位をとる)チャンスのある競技は確かに必要かもしれない。しかし見ているものにとってはいまいちすっきりしない。やはり対抗リレーを見ているほうが圧倒的に面白い。
実力の世界をレースの原則にしつつ、スリルや転ぶ・バトンを落とすなどのアクシデントが勝敗の要因に加わるのが見ていて納得がいく。学校教育の場から競争を出来るだけ排除しようとする指導方針は皆さんはどうお考えですか。

さて、話を三郷ジュニアユースの活動に移します。クラブはどの学年も指導の人数を35人程度と制限しています。そもそもユースはセレクションの時点で選手達を”合格組”と”不合格組”に分けてしまう。
その段階で合格したその当時のある意味の”勝ち組”も時が経ち公式戦では11人のスタメンと24人のリザーブに分けられる。ここの線引きをもって”勝ち組”と”負け組”と判断してしまうと競争と協同はまず同居することはない。

ある日遠征に行くバスで、選手の誰かがこう言った。
”バスの一番後ろの席にはそのチームで一番偉いやつが座るんだ。代表でも一番後ろはカズ(三浦和良)の指定席だったらしいよ。”
ある学年は一番後ろを取り合った。そして喧嘩になった。みなさんが指導者ならどうしますか。

”ジャンケンしろ!!”と言ってしまいませんか。それについて不満を感じる保護者は滅多にいません。しかしこの場合、結局、その目標を達成出来る人と、出来ない人が出るという点で選手全員を納得させ、”選手の協同”(お互いを認め学び合うこと)をはかることは出来ないのではないでしょうか。

実力の把握が難しい状況において、日々選手のピッチ上での評価をもとにスタメンを決めた指導者と、ひごろのしせいかつをじゅうしし、チームに迷惑を掛けない真面目な選手を起用する指導者がいるとして、どちらの指導者が評価されるのでしょうか。 賛否は分かれると思うし、結果でものを言う人達がいるかもしれません。また発言力の強い一部の評価者の声に流されて評価が形成される部分もあります。(マスコミなどそのいい例)

近年、少子化が進み、サッカーでプロを夢見る子どもを応援し、期待を掛ける親が、選手起用にまで意見をするケースがあると良く耳にします。また、レギュラーの選手や保護者、最後には指導者の悪口まで口外する母集団の話を耳にします。
レギュラー決定の方法に圧力を受けた指導者はその圧力に負けて公式戦のメンバーを決めるのに”ジャンケンしろ!!”といったとしたらどうですか。不満を感じる選手・保護者が圧倒的だと思います。

”ジャンケンで決めろ”というような平等風なルールを提案する指導者は最も愚かである。平等をかざして競争を非難する大人も愚かである。また競争の結果”リザーブ”をバカにする”スタメン”も、”スタメン”を批判し自分の努力につなげない”リザーブ”も愚かといえるだろう。

ある教育研究者の学術論文には次のようなことが書かれている。
<競争が問題なのではない。それに負けたとき、集団における本人の序列が影響されるとき深刻な問題となる。では、序列になるものと、ならないものは何が決めているのか?それは、周りの集団であり、子どもにとって決定的な人物、それは親であり指導者なのである。>

我々指導者は選手達に競争を求めるが、それは目先のレギュラーとか、明日の一勝ではいけない。
”何のためにサッカーをしているのか””最終目標は何なのか”ということだ。たくさんの仲間がいるのだからたくさんのよいところを学ぶことが出来る。
”お互いに知り合うこと関わりあうことによって、より多くのことを吸収し、より多くのことを与えよう!”と。それを”レギュラーは偉いからグラウンド整備や準備はリザーブがやれ”という順列に影響する発言を指導者がしたり、”レギュラーになれないならユースなんかやめちまえ!”という親がいたら、競争と協同は絶対に同居しない。

ある小学校の先生が100マス計算を考案した。本人は競争など意識しなかった。しかし生徒には心地よい競争意識が芽生え、遅い生徒にも自己タイムの更新という目標が与えられることでこの授業は生徒達の計算力を飛躍的に伸ばす方法として全国で取り入れられた。
30人31脚も目標タイムに届かない本番でも結果より、全員の協同に評価を与え、クラス経営に大きな成果を与えた話は数知れない(中学では文化祭のソーラン節もその一つ)。

サッカーは世界で最も楽しいスポーツである。GK以外唯一手の使用を禁じるスポーツだからこそとても難しい。だからこそ選手は失敗(エラー)をする。そしてそれが財産となって努力へとつながる。
また仲間と協力しなければ勝利を手に出来ない。ミスをしたら仲間をフォローし合い、ミスした仲間に次のチャレンジをする勇気を与えながら体力の限界までチームのために戦う集団スポーツだ。社会での生き方の教科書(バイブルといってもよい)がサッカーです。
感動と勇気を共有するためにこの選手・父母会・スタッフ・OBも含めた三郷ジュニアユースという集団が協同(学び合う・良い面を吸収しあう)を目指しましょう。

ある選手が言った。 ”バスの一番後ろの席にはそのチームで一番偉いやつが座るんだ。代表でも一番後ろはカズ(三浦和良)の指定席だったらしいよ。”
その日から誰もバスの最後部の座席には誰も座らなくなった。皆さんはこの集団をどう思いますか。

わたしは莫大な時間を掛けて書き上げたこの論文の言葉よりも、選手達を信じ、地域を信じることの方が何倍も重いと知っています。だから信じます。