福田教授の総回診【第15回】『「絆」を<つなぎ止める>』という意味の「絆」

「絆」とは昔は犬や馬などを<繋ぎ止めておくもの>の意味で使われていたが、最近になって<断つことの出来ない人と人との繋がりを意味する>言葉として定着してきた。特に近年、東北大震災で一躍広まっていった気がする。「友情」という言葉が少し感傷的な響きが感じられるので敢えて「絆」という言葉で、最近の選手について回診してみたい。

チームも18年を迎えるが、最近の選手達はおしなべて友人との「絆」が薄いと感じている。そのことを漠然と感じながらも、心の片隅では真面目な選手が本当に増えたなと好意的にとらえていた自分もいる。喧嘩をする・選手同士で文句をいう・それが原因でやめてしまう・なんていう人間関係のトラブルはほとんど無いからだ。三郷の選手は礼儀正しいし勉強も頑張るいい伝統が出来てきたな・・・と。
しかしながら、だからといってみんな仲が良く、みんな思いやりがあり、協調性もあるのかというと?うーん、そうでもない気がする。
3年生の夏を過ぎたりすると3年生チームはガラッと変わる。三郷の選手からは毎年、常にそれを実感し、最後の大会になるとすごく強くなる。仲間と一緒にサッカーをやる時間が短くなってきていると感じるからか、良く声も出るし、全力度も増したり、と頼もしい。
最近言われている「絆」が強まっているのだなと感じらされてきた。普段口やかましい私もあまり怒ることが無くなる。戦術の浸透も速く、私が良く選手たちに話すチーム力を表す数式『「1+1<2」』(ボールホルダーにサポートプレーヤーがうまく関われば個人の力はより引き立つ)も実感できる。

私は教育者としてサッカーを指導する大前提に「社会に通用し、貢献できる人格の形成」があります。「サッカーは人生そのもの」と、三郷のスタッフたちも全員そう思ってオフザピッチの指導も、徹底しています。
このことをほんの少し狭めていえば、「サッカーと社会性」はかなり密接につながっているということも言えます。社会は集団が大きければ大きいほど、厳しいルール(根底にモラルやマナーといった常識的振る舞いがある)が必要です。車社会となったこの日本は、交通においても道路標識しかり信号機しかり、道路交通法しかりです。危険運転致死傷罪は懲役25年の重罰まで規定される始末です。

サッカーは11対11です。ポジションの役割を最低限考えてプレーすることは社会でいえば「モラル」みたいなものです。全員が自己中心的にFWにポジションを取ったり、局面も理解せずドリブルし始めれば勝てるメンバーが揃っていても勝てません。ルールを破れば退場・与PKと集団に迷惑をかけます。
サッカーは「社会の縮図」なんです。こんなことは小学校の高学年になれば当たり前に理解できます。しかし、中学年代(12~16の青年期)になると、自我の目覚めとともに権威(指導者やルールもその一つ)への反抗心や集団から外れたくなる心理状態が生まれやすくなります。この青年期を葛藤しながら乗り越えていくのに同年代との「絆」を育てることは重要です。
行動逸脱性の大きなブレーキにもなるし、共感しあって努力し続けるという武器にもなります。(構成メンバーにもよると思いますが)、今の3年生・2年生と絆が強まっていく傾きが今一つである気がします。言い換えると社会性が不足しているのだと思っています。
黙々と努力はするが仲間と深い関係は築かない。与えられた仕事はするが仲間とクリエイティブな付加価値を生み出すことはない。そんな生き方で社会に出ても、会社の歯車の一つとしての定まった仕事など数年でコンピューターに奪われてしまうに違いありません。歯車を潤滑に動かす潤滑油となり、コンピューターでは出来ないポジティブな発想を持つためには森羅万象と関わった方がいい。早く何とかしないと社会で重宝される人間にはなれそうもありません。(=いいサッカー選手にはなれない)

個人的には極限に近い状態にまで集団を追い込んだとき、そしてそれを乗り越えようとするとき、その仲間には絆という名の大木の芽が生えてくるものだと感じています。
選手の限界に挑ませる。過酷な試練を与える。それを救ったり、手助けしたりしない。子供たちは1人で乗り越えられると判断すれば仲間を必要としませんが、自分1人では不可能であると思ったり、極限逃げたくなったとき仲間を励まし仲間に励ましてもらいながら乗り越えようと話し(声の掛け合い)をし始めます。「1人じゃないんだ」とか「あいつのために」とかと心底思えるような環境設定が求められています。
しかしながら今の子供たち年代に完全にそんなプログラムが欠如しています。指導者が「トレーニング理論」とか「ほめる指導」とか「自主性を重んじる」とかにいい指導者像を当てはめ、理不尽なほどの気持ちの大切さを基に寄せの厳しさとか運動量の要求を選手に求めるといった情熱が足りないともいえます。
保護者も先回りして選手に立ちはだかる障壁にはしごをかけたりしてしまいます。また忙しさの余り、自分の子供以外を見る機会を持つことが少ないので、子供中心で集団のモラルを軽視してしまう。今こそ、父母会と指導者が協力して子どもの社会性と自立を促すためのプロジェクトを立ち上げて行きましょう。
指導に「和」とか「協調性」とか「奉仕の心」とかいわゆる「社会性」を育むためのアプローチ方法をプログラム化する必要性を感じてしまいます。
登山・アドベンチャープログラム・(長期合宿・ボランティア活動・・・)「集団の優先順位」が身につくように。

我々大人も専門家を招いての研修など有用かもしれません。「私の家はしっかりやっているのに何でこんなことしなければならないの?そんなに暇じゃありません。」このように考える保護者!そこが社会性の欠如かもしれません。会社で仕事しているときはそうではないのに、子どものこととなると豹変してしまう。
そんな人がいたら集団全体の質が上がらない。自分だけはという考えでチームが良くなることはない。皆さん集団(家族・友人・職場)のために犠牲にしているものがありますよね。「犠牲にしてまで頑張っているのに」と思っている人間がそれを理由に自己中心的になります。そもそも「犠牲」という感情がや言葉に問題がありそうです。
かつて仙台の震災地に支援物資を届けに行った際、聞いた言葉です。「街の中にヤンキーがいなくなった」と。みんな一つになって復興に向かい、失われた「友の命」に報いる心を持ったのです。苦境の中で「絆」は最高の復興の原資となっていたのです。