福田教授の総回診【第16回】地域の円熟とは ~創立20年を迎えて~

23歳で三郷という地に赴いて 25 年が経ちました。四半世紀です。自分の人生の半分以上をこの地で過ごし、またサッカーに関わってきたのこともあり、三郷市やその周辺・三郷市のサッカーの変遷と現状について書こうと思います。

赴任当時、三郷市の少年サッカーは隆盛を極めていました。三郷工業技術高校の隣の立花小学校や新三郷駅の近くの桜小などでは桜サッカーや立花キッカーズが「所狭し」と活動し、中学校では彦成中・彦糸中・早稲田中など全国大会に出たり、県で決勝まで行ったりが普通でした。しかもその多くの学校ではサッカー専門ではない指導者の方々が熱意をもって、サッカーを勉強し、土日もなく子供たちを指導してくれていたのです。
そんな地域の恩恵を頂戴し、私も赴任して最初の新人戦で県ベスト8に入ることが出来ました。それ以降の私の指導者としてのキャリアは、先達(せんだつ)の輝かしい努力と成果におぶられてきた部分が多分にあり、感謝しています。

新三郷駅の誕生・大規模公営団地・大規模分譲マンション群の建設と、それを支える好景気(バブル)をテコに新三郷駅周辺は人口が急増し、その大きくなる分母の中でサッカーの指導者数もお父さんコーチを中心に一定数確保されてきました。
集合住宅群の中に拠点を置けるサッカーチームは、ものすごく狭い面積の中で何十人ものサッカー少年を集められる環境が強みです。保護者の送り迎えなどなくても、小学校低学年のころから自力で活動に参加させられますし、隣近所ですぐに協力が取れる体制を作る事が出来ます。地域のサッカーの隆盛というのはこういったことが生活環境的要因の1つだったのです。

ベッドタウン的エリアとして開発された新興居住地域(とりわけ UR などの公団による都市整備)における隆盛の時代は、転居してきた各家庭における子育て世代をほぼ同じくするため、その多くは、15年~20年くらいすると衰退していきます。この環境で育った、子供たちが大人になり、結婚して子供を産み、また近所に戻ってくる(鮭の遡上みたいですね)こともあるので、栄枯盛衰のサイクルが発生する場合もあるのですが、公営住宅地域などは部屋数の問題や老朽化もありそうも行きません。
新興住宅群が出来てから子育てが完了する20年後には、例外はあるもののその多くの地域は、小中学校クラス数減、あるいは学校統合、小規模学校での部活動では、勝利を目指して活発な活動することは望めなくなります。

このような地域での中学校の部活動は今後、もっともっと地域のスポーツ団体(NPO 法人など)に委ねられていくことになるでしょう。サッカーで言えば中学生の競技力向上のため選手達の受け皿としてクラブチームは存在し、地域貢献を果たしていくことになります。三郷 Jr Youth FC も、こうし
て設立しました。
よって、基本的には地域に根ざしてエリアごとに NPO 法人化した総合型スポーツクラブが存在することが理想でしょう。ただ、その設立目的をクラブチームの中によっては勝利だけを最優先に地域を無視するクラブがあったり、いい選手にはエリアを無視して、条件付きで選手獲得に走るチームが存在しています。ビジネスとして子ども達を捉えている利益追求型チームもあります。NPO法人に名を借りて指導体制がいい加減なクラブチームも見られます。需要あるところに供給があるのですからビジネス的戦略ですら全否定するつもりはありませんが・・・。

次に少年団サッカーに話を展開します。かつて(25年くらい前)と違い子どもたち数の減少を抱える地域の多くの少年団が、団員の減少に頭を悩ませています。細々とやっていくとしても、かつてのような栄光を手にすることは非常に難しくなっています。少ない人数の中にいる質・レベルの高い選手や、プロを夢見る選手・それを期待し後押しする保護者は当然、しかるべく場所を求めてチームを移っていきます。
30年以上も活動を継続してきた少年団が、これから先も改革なしに存続していけるかは、社会環境的にも本当に大変難しいと言わざるを得ないでしょう。
私はこの地域の先駆者の方々の努力をよく知っています。また傾けてきた情熱や地域に対する熱い想いもわかっているつもりです。今まではそのような方々が築いてこられた地盤で、主に現場の指導に邁進してきました。
20年前地域の要望に応える形で中学年代のサッカー選手たちのクラブチームを作りました。せっかく育てた小学生達が中学校で満足にサッカーできる環境が与えられず、エネルギーのベクトルが悪い方向にいってしまう可能性があると。
地域の声があったからこそ、ご支持もいただけて、ご理解もご協力もいただけて、数々のタイトルも成績も残すことが出来て参りました。何より、多くの卒会生がスタッフとしてチームに戻り、4人が教員としてサッカーの指導に携わり、OB の社会人チームが県リーグ2部へ昇格しました。こうして20年を迎えることが出来ました。

チーム発足から20年、今は、少子化による少年団の選手不足と、選手の市街流出に歯止めがかからない現状から、危機感を募らせているという現状に苦悩している方々の声を聞きます。改革しようにも伝統や過去のしがらみがそれを阻むのです。そしてその変革は、数人の思いつきで出来るほど歴史が軽くはないのです。
私は赴任から6年間は、ただ、いい選手をもらい、高校の現場だけを見てきましたが、地域の方々の声を受け止め、現場の環境を整えるために、1996年に行った U-15 のクラブチームを創立し、ここに三郷の地に永住する覚悟を決めました。その後、創立から10年経った、2006年には小学生のスクール指導に乗り出しました。そして今年、U-12 のクラブチーム作りをはじめとした小学生年代の変革によって、地域の未来を下支えするサッカー選手の発掘・育成に乗り出す決意を固めています。

1984 年にドラマ化された「スクールウォーズ」が流行り、ラグビー人気が起こました。影響でその頃 15 歳だった少年が 16 歳(高校)からラグビーを始めたので7年後の1991年(彼らは大学3、4年生)、大学ラグビーはブームの頂点だった気がします。
社会人は新日鉄釜石から神戸製鋼の時代への移り変わりで盛り上がっていた。大学ラグビーも隆盛し、早明戦などは国立を超満員にした。1990 年の早明戦(事実上の大学チャンピオン決定戦)は同点同校優勝。翌年は明治吉田主将のトライで僅差の明治優勝、少し年上ですが私もラグビーが好きで、1991年の早明戦は国立にいました。身震いするほどの大歓声と感動を覚え、録画してあるその試合を自分のサッカーの試合の前日に見たりしていました。
明治の永友さん・吉田義人さん(現7人制 SAMURAI SEVEN 指導者)・早稲田の郷田さん・堀越正巳さん(現立正大監督)・今泉清さん・清宮さん(息子が早稲田実業野球部)などはスーパースターでした。早稲田の今泉さんは PG でルーティーンを持っており、私はそれを今でもまねできるし、教員になった後、ラグビー部員に同じ事を見せて、50m の PG を左右の足で良く決めて見せたのを覚えている。
そんな高校ラグビー部も今や 15 人という人数を揃えるのが難しくなり、埼玉県でもラグビー部で単独出場できる高校は50チームを切ってしまっている(ちなみにサッカーは170校)。2015年 W 杯で3勝を挙げた日本代表。そして、テレビ出演の増える五郎丸選手。こうしたことをきっかけに、高校になってラグビーを始めてくれる選手が増えれば、あと8年後あたりがまた、楽しみである。スーパーヒーローの登場はそのスポーツの競技人口を増やすきっかけとなる。いま、ラグビー界にとってはチャンスである。ナデシコが女子サッカー人口を増やしたように・・・。

しかし三郷市のような街のサッカー事情は少し違う。サッカーは人気が落ちている訳でもなければ、ヒーローがいないわけでもない。日本が今ひとつであったとしても、世界のメッシやクリロナなどのプレーはメディアに頻繁に見られる。プロもあるので夢を持ってサッカーを始めるこどもたちの数は大きく減ったりはしていません。
少年団各チームにはそれぞれの悩みがあるでしょう。選手数・コーチ数・活動場所・指導コンセプトの統一などです。変革の気持ちを持っても、それぞれのチームの伝統や人間関係にしがらみを感じ、内側からは動くに動けなくなります。
隆盛を極めた三郷市サッカー。先人達の嘆きが聞こえます。未来ある地域の子ども達のサッカーを通じた人間形成やプロ選手を目指しているこどもたちの夢を縮小させるわけには行きません。サッカーに携わる人達が腹を割って話し合い、未来のための環境作りを考えたいものです。市内で活発にサッカーボールを追っている少年達の姿と、試合を応援する保護者達の黄色い声援が響かない街にしたくない。
「三郷のどこのチームが強い」という伝統より、「三郷市のサッカーが30年経っても落ちることなく盛んである」という伝統をつないでいくことが重要ではないか。

情熱を持った、為政者の登場とそのリーダーシップを待っているのか、自ら舵を取るのか。時間がないことを言い訳にはしたくない。「サッカーは大人を紳士にする」この言葉には深みもある。「サッカーで街を成熟させる」そう置き換えてみたい。成熟した地域とは「隆盛サイクル」によって浮き沈みない地域をさす。