「名将への道」
自分の身体能力にうぬぼれ、体を動かす競技をこなすことを軽く見ていた私が、痛い目に遭ったことがある。スキーである。スキーに対する経験も何の知識もない私は、先輩達に誘われるままに初めて板を履いてリフトに乗って降り立ったのが、「猫魔スキー場のチャンピオンコース」という、コブか急峻な林間コースでしか、滑り下りられない場所であった。スキー大好きな諸先輩達は私が初心者であっても「ボーゲン」くらいは出来るものだと思っていたらしく、あっという間に私の前から姿を消し、颯爽と滑っていってしまったのだ。
初めて板を履かされて立っていることがやっとの私は、どう見てもコブだらけのコースに挑めず、狭くてジグザグの林間コースを選択し、勇気を絞っていくことにした。しかし、最初のカーブを曲がることも出来ず、止まるすべも知らず、圧雪のされていない谷に落ちそうになった。火事場の馬鹿力という言葉がまさに当てはまり、私は止まるために転倒することを決意し、ぎりぎりの判断で谷底転落を避けられた。大げさかと思われるでしょうが本当に死ぬ間際であった。スキー板を担いで、リフト降り場まで戻った私は、係員に初めてのスキーでここに来てしまったことを話すと、あきれ果てた表情で「救護の人が来るから待て」と、その場で待つことになった。180cmの私が、救護の人におんぶしてもらい、後ろ滑りで、コブを滑ってもらって、助けられている姿はかなり滑稽で、物笑いの種であっただろう。白銀の世界で赤っ恥である。次のシーズンは北海道で初めてスノボを初体験し、「びびり」から後ろに体重が乗りスピードが止められなくなったあげく激しく後頭部からこけて脳しんとう、以来私は、冬はスキーに誘われるのが嫌で、冬のOFF SEASONは海外へ、「サッカー研修」という言葉を使ってヨーロッパへ逃げ込んだ笑。
苦手なことが割と少なく、ゲームとスポーツはたいてい人並み以上にこなす私は何にでも興味を持ち、まずはチャレンジしてきたが、初めて取捨選択を覚えることになった。仕事とサッカーで人生の密度を濃く、22歳から54歳までを駆け抜けてきた自分は、忙しい中にあっても、趣味を持ち、経済(特に株)の勉強をし、読書をし、旅行に出かけ、サッカーや歴史を研究し、ラーメン屋を巡り、ゴルフも競馬も楽しんできた。じっとしていた時間など全くなかった。万能ではあったが浅く広くといった感じである。
いきなり、ガンのSTAGE4を宣告され、自分に覚悟を決めて終活が始まった自分でさえも、立ち止まることなく今まできた。旧友との旧交をあたため、サッカーに身を捧げてきたが、抗がん剤も効かなくなりついに、エンディングが近づいてきた。(まだまだ完全に諦めはしないが)やるべきことがあるというのは「幸せ」なこと。やるべきこととは、少なくとも未来につながるために行うこと。寝ることだって、食べることだって生きるために必要なこと。最近の自分はまず、熟睡は出来ない。ガンによる背中や腹部・胸部は、寝ていると圧迫が強まり痛みが襲う。3時間連続で眠れることはほとんどない。それに加えて、胃腸の弱さ?・栄養状態?・血行の問題?なのか、副作用なのか全身(特に膝から下)が冷えてしまい、そのせいでより眠りが妨げられている。十分に深く眠れない私は、自分(の人生)について深掘りし、気づいたことがある。
まず、1年以上先のことに関する興味関心が優先順位から大きく減ってしまっている。経済の動向・株価の変動・政治の行く末・脱原発・カーボンニュートラル、食い付いていた話題に深掘りしたくなる気持ちが今までと比べて薄くなっている。また、教員を辞めてしまった今、明日の授業のために教材研究をして有意義な授業を行うためのプリントを作ったり、良い授業をするための導入としての時事解説といった授業のシナリオを描いたりすることもない。食事も自ら制限をかけていることもあるが、食べたいものがない。昔のようにおいしいコーヒーとラーメンとお酒に欲望をかき立てられることもなくなってしまった。抗がん剤の影響で禿げた頭にひな鳥の産毛が生えたような髪の毛を鏡で見て、こじゃれた服を買う気にもなれなくなったし、自由に車を運転して遠くに旅に出ることも難しくなった。
これで良いのだろうか。どういきていけば。
誰かと一緒にいても未来に夢も希望も失い始めている自分といても誰も楽しいはずがない。ハイテンションで人と会うことが体調的にも億劫になっている今、一人でいることが本当に多くなった。コロナ禍多くの人が生活様式を変えたことであろう。アクティブな行動範囲や人付き合いが出来なくなり、一人でいる時間が長くなったからこそ、自分や人のために何を考え、何を伝え、どんなアクションを起こすべきなのか。家族を守り、チームを守り、お世話になった多くの方々のために、間違えのない選択をして日々、生きて行こうと思う。
何でも挑戦し、突っ走ってきた今までを無駄にしないためにも・・。
今回の総回診も病院のベッド上で作っている。入院生活が長くなるであろう今年はまず、私と同じように、根治が望めず、余命と痛みとに向き合っている多くの病人やその家族とのコミュニティをブログで作っていくつもりでいる。すでに若干始めている。
しかし気づくと相変わらず選手の指導やサッカーのトレーニングのことばかり考えている。選手達を上手くしたい。試合に勝たせてあげたい。必死に麻薬で痛みを抑え、下痢や便秘などの排便をコントロールしながらサッカー現場に向かうつもりである。私のもっている全てを教え子のためにぶつけたい。それがやらなければならないこと。未来への興味関心が薄れているとはいえ、時間のほとんどをサッカーしか考えられずに過ごしている自分は、少なくとも責任感だけは失われていない。本当に自分にはサッカーしかないようだ。
関東大会は、私の采配のせいで選手達を勝利に導いて上げることが出来なかったが、選手達は確実に強くなった。県リーグ1部最終節では、残り2節で成立ゼブラとCAアレグレに勝利し、奇跡的に自動残留を果たすことも出来た。4月に生命を賭けて23期生の指導のタクトを握って7ヶ月、途中の7月8月の「改革の痛み」まさに「NO PAIN NO GAIN」を挟みながら、最後の最後にぎりぎり関東でも戦えるチームになった。
余裕のない私は、選手にかなり厳しく、冷徹な指導もしてしまい、申し訳なく思うところもあるが、本当に選手達は素晴らしかった。選手達にここまで生かされていたことに感謝している。しかし高校年代のサッカーは行く場所によっては本当に甘くないところであることは覚悟していて欲しい。
また、私とサッカー指導をともにしてきた仲間には、もっともっとサッカーやサッカー指導を学ぶ意欲を持って欲しい。「教える」「チームを強くする」ための選手へのアプローチは経験と勉強の継続が大事であり、揺るぎない情熱を持ち続けることが何より重要である。環境によって情熱が薄れていくようなら、真の指導者にはなれない。
世の中には多くの先達がいる。長崎総科大高の小嶺先生、帝京を率い今は矢板中央のアドバイザーの古沼先生、習志野・流通経済大柏を率い現在は国士舘高校の本田先生、埼玉県では浦和南を率いている野崎先生・武南を率い今も武南Jrの指導をされている大山先生、大宮東を率い見沼Jrを指導されている中村先生など定年を過ぎても情熱の火を絶やすことなくサッカー指導に人生を捧げていらっしゃる「名将」がいる。著書を読むのも良いが、オーラを放つ方々と直接話を出来る機会をたくさん持ちたいものである。
人間としての懐(人間性・人脈・経験)を大きくしないと指導者として大成は難しい。何でも自分なら出来ると若い頃ある意味うぬぼれて、40くらいが一番指導者として脂がのるのだと思っていた私。間違っていた。
体が動かなくなり、時間を大事に使えるための取捨選択が出来るようになる。そして仲間やツールの助けの必要性を実感し、そこをうまく体系化する中でチームを作るようになる。癌になって改めて大切なことに気づかされた。2022年、LAST YEAR。未熟とうぬぼれがゆえに出来なかったことを出来る年にしてみせます。三郷Jr Youth FCとC・F・PASIONの飛躍に期待してください。